モノ作りの始まりストーリー 後編

· インスピレーション,制作

17才で学校を辞めて自然と手伝うことが増える一方

時間がある日々部屋を整理している時に新しいベッドが欲しいと、子供の頃好きだった木工教室の経験もあるので制作することにする。

材料を購入するため母を連れて天板や木材を販売し家具を製作するお店に行った時、「僕はこの仕事がしたい!」とひらめきがあった。もちろん母は応援しなかったけれど。

父の仕事を手伝いながら、次は棚、次は机、次はダイニングテーブル、、どんどん製作する傍ら、クラブ通いや遊びも欠かさず卒検のようなものを受けるためのプライベートスクールも通い卒業資格を得る。

18歳で軍隊へ召集される。ホロコーストを生き延びた祖父母や、戦争で多くの仲間を失った父の元に産まれたけれど、自分にはユダヤ人やイスラエル人のストーリーがしっくりとこなかった。軍隊での意義も見いだせなかったから軍隊を中退。今では多くの人が軍隊に行かなくなったけど、自分の時代にはまだ極めて少なかった。

父の仕事を続け、パリスダカーに出場する車を制作している人に誘われ、溶接など鉄仕事を任せられ制限ある時間の中でチームで作り上げた仕事は楽しかったし、家具製作も欲しいという声も上がり、販売や、オーダー製作を始めていた。

イスラエルでは3年間の軍隊期間が終了すると、制限のある生活や、生死を身近にする体験やから解放されて、多くの若者がインドまたは南米などに旅に出る。当時もガザ地区内を管理していたので、ガザ地区内にいた友人などには銃撃戦なども頻繁なモノだった。リファがインドに行っていた2006年にはレバノン戦争も起こった。

小さなころから友人の姉兄から聞いていたインドの旅話、軍隊終了した友人たちを待って一緒にインドへ渡航。イギリスやフランス、スイス、アメリカ、グアテマラには行ったことがあったけれど、インド北部での原始的でシンプルな暮らしや、人の強さや優しさ感銘を受け、村々を訪れ滞在し9か月をほぼ山で過ごす。(この話はこちらのブログから

24才の時、2回目のインドの滞在中にパートナーのアキコ(私)に出会い、アキコがイスラエルに来てから、父の仕事を手伝いながら建築、インテリア学科で学び、2級建築士の資格を得ましたが、自分の手で作り出すことに一番の情熱をもっていることに立ち返り、モノ作りの道を歩むことを決めたのでした。

日本に来てからは、道具や材料が仕入れられなかったり、言語はわからない、気候や水も違うという環境の変化が大きなチャレンジでした。

今、ようやく作りたいものが作れる。

制作のたびにチャレンジがあるわけですが、工夫して乗り越えると、経験と技術を手に入れられる、喜びでもあります。

作らせてもらえる機会をいただけることに感謝しています。

いただいた依頼で作らない日も、家のものを作り、直し、何かを作り続ける。一生をかけて学び続け、磨き続ける。さらにたくさんのモノ作りをする機会がありますようにと願っています。